泪橋大嶋屋の屋号「大嶋屋」のルーツは、江戸時代の宝暦年間(1751年~1762年)に遡ります。
本家「大嶋屋」は太平洋戦争の空襲により提灯屋としては途絶えてしまいましたが、暖簾分けで多くの「大嶋屋」を残しました。
文京区白山の「白山大嶋屋」
台東区土手通りの「土手大嶋屋」
台東区下谷坂本の「坂本大嶋屋」
台東区谷中の「谷中静山堂」
荒川区南千住の「コツ大嶋屋」
品川区武蔵小山の「武蔵小山大嶋屋」
昭島市の「昭島大嶋屋」
足立区千住の「千住池田屋」
台東区駒形の「駒形大嶋屋」
そして、荒川区南千住泪橋の当店「泪橋大嶋屋」です。
当店初代の村田芳造は、大嶋屋本家6代目の時代である
大正2年(1913年)に暖簾分けを受けました。
泪橋大嶋屋は、[初代]芳造、[2代目]欣一、[3代目]修一、[4代目]健一郎と代を重ねてきました。現在は3代目を師匠として4代目が技を磨いています。
東京市内に電灯が普及したのは1912年頃です。それまでの夜間照明は、灯籠、行灯、提灯が主役でした。
「提灯」の文字が文献に見え始めたのは、室町時代になってからです。しかし、その頃の蝋燭はまだ高級品でした。
提灯の普及は、江戸時代に和ろうそくの生産量が増えてからです。木蝋の原料となるハゼの木が琉球から伝わったのです。
昔の絵画を通して、提灯の形が進化して行ったことが分かります。現在に伝わる提灯の形は、江戸時代中期に確立されました。
江戸時代半ば頃から浅草近辺には多くの描き職人が仕事をしていました。
明治時代の頃より、問屋制が発達し提灯製造業と提灯文字描き専門業の分業が進み、現在も東京の提灯屋は貼りあがった火袋に、家紋文字等を描き入れる事を仕事としています。
提灯に描き入れる文字は一般的に江戸文字といわれ、神社仏閣に貼る千社札の原稿を提灯屋が描いていました。
千社札は枠の中に文字を入れるが、提灯は枠の線が無いので少しのびのびとした文字になります。
また、家紋は着物の紋付の入れ方と違い、白地に黒で家紋を描く。
遠くからも見えやすく、線の入れ方を工夫しバランスを取り、描くのが特徴です。